A子ちゃんとも、できないながらも話しをしていくうちに、非行に走ってきた原因が分かってきた。A子ちゃんの場合にも、いじめが原因だった。A子ちゃんが当時、通っていた学校は、中高一貫の私立の学校だった。だから、一旦、輪から離れれば、輪を取り戻すのは実際には難しいという特別な事情があったかもしれない。そういう状況の中、学校に行っても楽しくないもんだから、授業が終わると繁華街をうろつくようになり、気がついた時には、街の不良グループと交際するようになっていた。
そして中学二年生のころから、家出等を繰り返すようになった。当初は、A子ちゃんの両親が探し出して、無理やり家に連れ戻したりしていたが、その間、A子ちゃんが援助交際をしているというのが、母親に分かった。母親は、それが分かった時に、きつくしかった。そして、その後、まるで汚いものを見るような目で、A子ちゃんのことを見続けた。「あなたはもうお嫁に行けませんから。あなたはもう私の子じゃない」と言って、延々と責め続けたのである。自分自身、そういうことが悪いことは分かっていた。
そして、お母さんから叱られた時に、もう二度としないと思っていたが、いくら自分が謝って反省しても、お母さんから責められ、本当に汚いものを見るような目で見られる。A子ちゃんはそれが一番辛かったと言っていた。家でもそんな状況なので居場所を失ってしまい、家出等をするようになり、今度、気がついたときには、不良グループの十八歳の無職の少年と同棲するようになっていた。その少年は、覚せい剤、シンナー等をやっており、A子ちゃんも同棲している間、シンナーを頻繁に吸引するようになった。
そして、その少年に対する薬物取締法違反で、アパートが家宅捜索された時に、A子ちゃんも一緒に検挙されて、今回送致された。鑑別所に居るA子ちゃんに一日でも多く会いに行ってと両親に言った。頻繁に会いに行くと、見捨てられてないと思い、以後の親子関係が、比較的回復するからである。しかし、両親は、四週中、たった一回だけだった。そんな両親に心を開くわけない。審判の前、両親は、軽くなるようにしてと言ったが「帰ってきても家に入れるつもりはない。子どもはあの子だけではない。お兄ちゃんも居ればお姉ちゃんもいる。
同じように育ててきたのに、あの子だけがあんな風になってしまった。いずれ帰ってきても親戚に預かってもらうか、それがだめなら施設に入れる」と話していた。私は、両親が、自分たちは全く悪くないと思っているんだと感じた。 審判の日、両親は少女の引き取りを拒絶し、少年院送致に。非行が進んでないことから、短期処分になった。少年院のA子ちゃんから、何通も手紙が届いた。内容は、本当に悪いことをしたと思っている。直接、私の口から謝りたいので両親を連れて来てほしいと書いてあった。
一回でいいから会いに行ってくれと頼んだが、結局、一度も行ってくれなかったと、そこで、A子ちゃんのことを、家族ではないと思っていることが分かった。少女が、仮退院間近な時にきた手紙には、あの家にはもう戻らないという内容だった。私は、本当に悲しく思った。わずか十六歳の子が親と決別する手紙を書かなければいけない心の中を思うと、本当にかわいそうになった。自分の無力さを感じるとともに、少女が真っ直ぐに歩んでいくことを願った。仮退院した少女は、少年院の面接員の知っているスーパーで働くことになった。ある時、税理士になりたいという相談を持ちかけられた。
現在、二級まで合格している。仕事をしながら勉強するという大変きつい生活だが、目標があるからきつい生活もいいと話していた。しかし、後悔していることが二つあると言った。一つはシンナー。吸引すると必ず脳が侵され、二度と再生はしない。A子ちゃんは、集中できないことに悩まされていた。本を読んでも記憶に残らない。もう一つは援助交際で、自由な恋愛ができないと言っていた。また「二度と非行に走らない。きれいなころの私に戻りたい」とも言っていた。私は、中学二年の始業式の日、割腹自殺をした。
一命を取りとめたが、みんなから死に損ないと言われた。これから頑張っていこうと思っていた時、そう言われるのが一番辛かった。こんなことを言うやつが人間かと思い非行に走るようになった。 理容学校の受験を受けて合格した。しかし、担任には、おめでとうの一言も言われず、見捨てられたという思いが込み上げた。そこから、心を閉ざすようになり、行き着いた場所は、十六歳という若さで暴力団の組長の妻だった。一筋縄ではいかない世界で、毎日、嫌味を言われた。そこでも私は居場所が無くなり、この人たちと同じことをしようと刺青を入れようとした。
親の承諾がいると言われ、判を押してもらうため家に行ったが、父親は黙り、母親は放心状態だった。その時「なぜ叱ってくれないのか。私はどうでもいいのか」と思い、座っている父を蹴ってしまった。血だらけの父をこれでもかというほど蹴った。そして、自分で判を押して家を飛び出した。後で親から聞いた話しでは、あの時、叱らなかったのはまた、自殺するのではないかと考え、叱れなかったらしい。両親の心が見えなかった自分自身を後悔している。 二十二歳のころ、今、おっちゃんと呼んでいる養父に、大阪のクラブで働いている時に知り合った。
こんな生活はやめて昼間働けと言われた。しかし、最初は急に降って沸いたような人間の言うことを聞けなかった。おっちゃんに、もう一度中学のころに戻りたいと言ったら「きっとあんただけが悪かったんじゃない。でも、いつまでも立ち直れないのはあんたが悪い」と言われた。その言葉はうれしく、過去の全てを断ち切ろうと思った。 二年後には司法書士の試験にも合格した。もうこれで大丈夫と思い、両親に謝りに行った。「本当にごめんなさい」と言うと、父は「もうええよ」と泣いていた。母も「よう頑張ったな。辛かったやろ」と号泣していた。もうこれからは、親孝行せなあかんなと心から思い、それからは両親との関係も良くなっていった。
子どもの親権問題などもあったが、司法試験を受けるため、近畿大学の通信教育部にも合格した。しかし、そのころ父親の体が、がんであることが分かり、余命もどれだけか分からないと医者から告げられた。あの時は、目の前が真っ暗になり、がんになったのは自分のせいだと思った。何とか父が死ぬ前に、司法試験に合格したいと頑張った。その後、司法試験に合格し、父は、それから四年半生きた。弁護士になった姿も見せられた。父も母も本当に喜んでくれ、写真も作ってくれた。胸元のバッヂを何どもなぞりながら本当に良かったと。これで親孝行ができたかなと思ったが、それはまねごとにしかなかった。 |