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大平光代弁護士 講演要旨

“心配をかけないこと それがほんとうの親孝行”

記事協力:三河新報社

【生まれたときから非行少年はいない】                    

現在の活動の中心は、やはり少年事件の弁護である。私がそもそも弁護士になろうと思ったのは、かつていじめを受け、そして非行に走った経験があるので「自分ならば非行に走っている子どもたちの気持ちが分かる」「自分なら何とかできるかも知れない」そう思ったからである。しかし、実際に弁護士になってみて、少年事件を担当するようになり目の当たりにしたのは、自分よりももっともっと苦しい思いをしている子どもたちが、たくさんいるという現実だった。

自分なら何とかできるという思い上がった考えを持っていたことを心の底から恥ずかしく思った。そして、子どもたち一人ひとりに会っていつも思うことは「生まれたときから非行少年はいない」ということだった。子どもというのは、周りの環境次第でどのようにでもなるということをいつも感じている。これから話すA子ちゃんも、心に傷を負った少女だった。

【冷たい家族・・・】

A子ちゃんは当時、中学三年生だった。中学二年生のころから、家出等を繰り返すようになり、中学三年生の時に恐喝、シンナー、そして援助交際をして、家庭裁判所に送致された。A子ちゃんの場合にも監護措置がとられ、鑑別所に収容された。そういう点でA子ちゃんの両親が、私の所へ依頼にみえた。A子ちゃんの家庭環境は、私立高校の教師をしているお父さん、ブティック等を手広く経営しているお母さん、高校生のお兄ちゃん、大学生のお姉ちゃんという五人家族。

最初、お母さんにA子ちゃんがこうなった原因が分かるかという質問をすると、お母さんは「あの子は小学生のころは成績も良く、明るくてとてもいい子だったのに。中学生になってから素行が悪くなり、こんな風になってしまった。なぜあの子がこんな風になってしまったのか分からない」ということだった。お父さんに聞くと「家のことは家内に任せてあるので、私に聞かれても分からない」という返事だった。お兄ちゃんは「A子は負け犬だ。ちょっとくらい嫌なことがあったからといって非行に走ってばかだ。

それよりも僕はもうすぐ大学受験だから、お父さんからお前は受験勉強だけしていればいいと言われているから、これ以上何もお話しできない」ということだった。その時私は、妹が鑑別所で苦しい思いをしているかもしれないのに、なぜこんな時に自分の受験のことだけを考えていられるのだろうと思った。A子ちゃんにはまだ、会ってなかったがA子ちゃんが非行に走った原因というのが、何となく分かるような気がした。本当に冷たい家族だなと思った。翌日、A子ちゃんが収容されている鑑別所に会いに行った。

私はいつもそうだが、子どもたちと会って最初に話をすることは「今日ここに来たのは、お父さん、お母さんから依頼されて来たわけではない。あくまでも、この事件の依頼者はあなた自身だから」ということを分からせるようにしている。なぜかというと、子どもが親のことを憎んでいたり、親への反発から非行に走っている場合に、親から選任されてきた弁護士に心を開いてくれるはずがないから。子どもから依頼を受けても、すぐに事件の話はしない。あたりさわりのない話や、世間話しをするだけ。

最近でこそ、子どもたちとスムーズに会話ができるようになったが、弁護士になりたてのころは大変だった。子どもたちの間で何が流行っているのか、何に興味を持っているのかが全く分からなかった。

【A子ちゃんもいじめが原因】                                       

A子ちゃんとも、できないながらも話しをしていくうちに、非行に走ってきた原因が分かってきた。A子ちゃんの場合にも、いじめが原因だった。A子ちゃんが当時、通っていた学校は、中高一貫の私立の学校だった。だから、一旦、輪から離れれば、輪を取り戻すのは実際には難しいという特別な事情があったかもしれない。そういう状況の中、学校に行っても楽しくないもんだから、授業が終わると繁華街をうろつくようになり、気がついた時には、街の不良グループと交際するようになっていた。

そして中学二年生のころから、家出等を繰り返すようになった。当初は、A子ちゃんの両親が探し出して、無理やり家に連れ戻したりしていたが、その間、A子ちゃんが援助交際をしているというのが、母親に分かった。母親は、それが分かった時に、きつくしかった。そして、その後、まるで汚いものを見るような目で、A子ちゃんのことを見続けた。「あなたはもうお嫁に行けませんから。あなたはもう私の子じゃない」と言って、延々と責め続けたのである。自分自身、そういうことが悪いことは分かっていた。

そして、お母さんから叱られた時に、もう二度としないと思っていたが、いくら自分が謝って反省しても、お母さんから責められ、本当に汚いものを見るような目で見られる。A子ちゃんはそれが一番辛かったと言っていた。家でもそんな状況なので居場所を失ってしまい、家出等をするようになり、今度、気がついたときには、不良グループの十八歳の無職の少年と同棲するようになっていた。その少年は、覚せい剤、シンナー等をやっており、A子ちゃんも同棲している間、シンナーを頻繁に吸引するようになった。

そして、その少年に対する薬物取締法違反で、アパートが家宅捜索された時に、A子ちゃんも一緒に検挙されて、今回送致された。鑑別所に居るA子ちゃんに一日でも多く会いに行ってと両親に言った。頻繁に会いに行くと、見捨てられてないと思い、以後の親子関係が、比較的回復するからである。しかし、両親は、四週中、たった一回だけだった。そんな両親に心を開くわけない。審判の前、両親は、軽くなるようにしてと言ったが「帰ってきても家に入れるつもりはない。子どもはあの子だけではない。お兄ちゃんも居ればお姉ちゃんもいる。

同じように育ててきたのに、あの子だけがあんな風になってしまった。いずれ帰ってきても親戚に預かってもらうか、それがだめなら施設に入れる」と話していた。私は、両親が、自分たちは全く悪くないと思っているんだと感じた。 審判の日、両親は少女の引き取りを拒絶し、少年院送致に。非行が進んでないことから、短期処分になった。少年院のA子ちゃんから、何通も手紙が届いた。内容は、本当に悪いことをしたと思っている。直接、私の口から謝りたいので両親を連れて来てほしいと書いてあった。

一回でいいから会いに行ってくれと頼んだが、結局、一度も行ってくれなかったと、そこで、A子ちゃんのことを、家族ではないと思っていることが分かった。少女が、仮退院間近な時にきた手紙には、あの家にはもう戻らないという内容だった。私は、本当に悲しく思った。わずか十六歳の子が親と決別する手紙を書かなければいけない心の中を思うと、本当にかわいそうになった。自分の無力さを感じるとともに、少女が真っ直ぐに歩んでいくことを願った。仮退院した少女は、少年院の面接員の知っているスーパーで働くことになった。ある時、税理士になりたいという相談を持ちかけられた。

現在、二級まで合格している。仕事をしながら勉強するという大変きつい生活だが、目標があるからきつい生活もいいと話していた。しかし、後悔していることが二つあると言った。一つはシンナー。吸引すると必ず脳が侵され、二度と再生はしない。A子ちゃんは、集中できないことに悩まされていた。本を読んでも記憶に残らない。もう一つは援助交際で、自由な恋愛ができないと言っていた。また「二度と非行に走らない。きれいなころの私に戻りたい」とも言っていた。私は、中学二年の始業式の日、割腹自殺をした。

一命を取りとめたが、みんなから死に損ないと言われた。これから頑張っていこうと思っていた時、そう言われるのが一番辛かった。こんなことを言うやつが人間かと思い非行に走るようになった。 理容学校の受験を受けて合格した。しかし、担任には、おめでとうの一言も言われず、見捨てられたという思いが込み上げた。そこから、心を閉ざすようになり、行き着いた場所は、十六歳という若さで暴力団の組長の妻だった。一筋縄ではいかない世界で、毎日、嫌味を言われた。そこでも私は居場所が無くなり、この人たちと同じことをしようと刺青を入れようとした。

親の承諾がいると言われ、判を押してもらうため家に行ったが、父親は黙り、母親は放心状態だった。その時「なぜ叱ってくれないのか。私はどうでもいいのか」と思い、座っている父を蹴ってしまった。血だらけの父をこれでもかというほど蹴った。そして、自分で判を押して家を飛び出した。後で親から聞いた話しでは、あの時、叱らなかったのはまた、自殺するのではないかと考え、叱れなかったらしい。両親の心が見えなかった自分自身を後悔している。 二十二歳のころ、今、おっちゃんと呼んでいる養父に、大阪のクラブで働いている時に知り合った。

こんな生活はやめて昼間働けと言われた。しかし、最初は急に降って沸いたような人間の言うことを聞けなかった。おっちゃんに、もう一度中学のころに戻りたいと言ったら「きっとあんただけが悪かったんじゃない。でも、いつまでも立ち直れないのはあんたが悪い」と言われた。その言葉はうれしく、過去の全てを断ち切ろうと思った。 二年後には司法書士の試験にも合格した。もうこれで大丈夫と思い、両親に謝りに行った。「本当にごめんなさい」と言うと、父は「もうええよ」と泣いていた。母も「よう頑張ったな。辛かったやろ」と号泣していた。もうこれからは、親孝行せなあかんなと心から思い、それからは両親との関係も良くなっていった。

子どもの親権問題などもあったが、司法試験を受けるため、近畿大学の通信教育部にも合格した。しかし、そのころ父親の体が、がんであることが分かり、余命もどれだけか分からないと医者から告げられた。あの時は、目の前が真っ暗になり、がんになったのは自分のせいだと思った。何とか父が死ぬ前に、司法試験に合格したいと頑張った。その後、司法試験に合格し、父は、それから四年半生きた。弁護士になった姿も見せられた。父も母も本当に喜んでくれ、写真も作ってくれた。胸元のバッヂを何どもなぞりながら本当に良かったと。これで親孝行ができたかなと思ったが、それはまねごとにしかなかった。

【苦しさバネに前向きに】                                         

父親が亡くなる前、がんは全身に転移していた。「最後は自宅で」と思い、モルヒネをもらい自宅に連れてきた。お父ちゃんは「ええお母ちゃんと、ええ娘を持って幸せやった。本当にありがとう」。これが父の最期の言葉だった。ええ娘だと言われるような娘ではなかったのに。今、たった一つ、願いが叶うのなら、もう一回、中学に戻してほしい。いじめられても自殺未遂して苦しい思いをしても、曲がることはなかったと思う。 親に心配をかけないことが本当の親孝行である。この手が母を殴り、この足が父を蹴ったと思うと情けなくなった。

こうやって弁護士になれたのも運が良かっただけ。非行に走って未だに立ち直れない人もいる。私も未だに苦しんでいる。割腹自殺を図ったので、腸にも肝臓にも穴があり、刺青があり背中は汗をかかない。内臓全体が弱っており、医者からも長生きできないと言われている。ある意味、自業自得。私が十代だったころのような苦労は絶対にしてはいけない。どうか、苦しさをバネに前向きに頑張って、子どもたちには幸せになることを祈っている。

 

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